猫とデンデンムシ

自分のために書いたものをシェア。支離滅裂、一貫性なしの個人的な意見です。

自己満足のためはダメなのか

自己満足のためはダメなのか


  • 正しいかではなく何が問題か


正しさでははかることができない。何か問題はあるのか。



  • 人のためは本当に人のためか


どんなに良い行いをしようとしても結局どこかで見返りを求めてしまうものだ。


人のために自分は苦しんでいい。なんていうのはすこし過剰な信仰心のようであまりピンとこない。

お国のために命をかける。みたいなことで、その時代はそうだとしても、それは間違いだったと言うことが今ではわかっている。

会社のために命を捨てろ。仕事のためには命をかけろなんてのは賛成しない。仕事は全てではないから。


人のためと言いながら、結局自分の喜びが味わえることで最終的に満足したりする。人のためにすることは自分のためだ。人にすれば自分に返ってくる。返ってくるからこそするのだとさえいう。


たまに猫や動物の保護のために命さえ惜しまないほどハードに働く人たちもいる。

そう言う人たちはすごい使命感を持っていて、マザーテレサや聖人のようにわたしには見える。

まったく人や動物のためだけに自らを捧げる人がいないわけではないと思う。ただわたしの理解を超えているだけで。



  • 自分のためはいけないのか


他人を喜ばせることは自分の喜びにつながる。

同じように自分の喜びを追求した先にひとをよろこばせることもある。


親切のつもりもなく言った一言が人の人生を変えたり、


楽しんで覚えた魚の知識が世の中の役に立ったり、


自分が楽しくて作っているものが他の人の心に癒しを与えたり。


ただその自分の満足がひとのためになるものもあれば人の害になる場合もある。


  • 和を乱す場合


昔、のだめカンタービレを見ていたら一人の登場人物の演奏に対して、「お前の演奏はオナニープレイだ」みたいなことを言っていて、なんとなく、独りよがりや自己満足ってだめなことなのか。と思った。


でもそこで言いたかったのはたぶん、皆で演奏している中で和を乱すような自分勝手な演奏をしていたからだろう。つまり和を見出した。全体を見ていないこと。協調していないことを言っていたのだろう。




  • 和を乱すことはだめなのか?


そもそも和を見乱してナニが悪いのか。

人間の価値観は異なって当然だし、各々の問題があるものだ。相手を強制して一つの集団に属させ、出る杭を打つようなことをすべきだろうか。


和 日本的な和は皆が皆に気を遣って迷惑をかけないこと。になんか似ている。各々の個性を消して、一つの集団になる。それは和なのだろうか。




  • 迷惑をかけることは悪いことなのか


日本では、


人に迷惑をかけるな。という。


インドでは、


人に迷惑をかけるのだから、他人も許しなさい。というらしい。


これはとても面白い違いだ。


だとしたらインドの和は


「互いに迷惑を掛け合い、その個性を許し合うこと。」


なのではないだろうか。


人は迷惑をかけまいとしても誰かには迷惑をかけているものだ。


だれも一人で生まれて、一人で死んだ後の始末はできない。迷惑をかけていいのだ。




  • 理想的な循環


自分の満足、楽しいこと、好きなことを追求する。それが人を満足させること。


自分がものを作るのなら、

自分が満足するものを作る。それに共感した人たちがそれを買う。そうして共感と購入されることからまた自分も満たされる。


  • 自分のためにすることの良い点


・やめることがない。


人のためにすると、人がいらなくなった時、もう作ることやすることをやめてしまう。でも自分が好きで作るのならそれは買われようが、買われなかろうが続けていくだろう。


・軸は自分にある。


人のほしい物にフォーカスすると何が売れる、何がウケる。そんなことに惑わされて、好きでもないのにやることになる。

そうするとイヤイヤ作ることになる。

そんなふうに作られたものは欲しくもなくなる。悪い循環をうむ。喜んで作られたものは購入しても嬉しい。


人の欲しいものに左右されると何を作ったら良いのかわからなくなり、個性もなくなる。


だれにうけるのかわからないが、自分が良いというその意思を形にしているのなら、どこかでかならずそれが良いと言う人が現れる。

そうなると自分と同じ価値観の人に出会えた喜び、共感してもらえたことがまた喜びになる。


  • 自分もお客の一人だと思う。


聖書にはこんな言葉がある。

自分を愛するように、汝の隣人を愛しなさい。

一見、隣人、周りの人を愛しなさいと言っているように思えるが、自分を愛する。と言うことをできている人はどれだけいるのか。


つまり自分を愛せないで人を愛せるのか。ということになる。


なぜ自分を愛せるのか。それほどに自分というものも他人と同様に価値がある存在だと言うことを認めるということ。


わたしは自分をお客の一人、最大のファンだと思うようにしている。


観客の一番前に熱狂的なファンの自分がいる。

自分を喜ばせられるものを作ると、そのファンも喜ぶ。だって自分だから。そしてその奥に共感する多くの人がいるのだと思う。


わたしがイヤイヤやる時、そのファンはがっかりする。それは後ろにいる多くの共感者もがっかりする。


自分を喜ばせることは多くの共感する人を喜ばせることだと思う。



  • 自己満足でもいいじゃない。


ダメだなんて誰が言う権利があるのか。

自己満足で良い。自分の「好き」を追求していき、自分を満足させる。それは人のためにもなる。自分の幸せ、満足をお裾分けする。そうやって仕事や人生が成り立つのならなんで幸せなんだろう。