ファッションとオシャレってなんだろう
ファッションとオシャレってなんだろう
- モテたいか、服をたのしみたいのか
ファッションは少なくとも2つの方向性がある。
・モテたいファッション(良い印象を与えるファッション)
と
・服を楽しむファッション(自分が心地よい)
そのどちらも満たすこともあるけれど根本的にはどちらなのかと言うこと。
- 人のために着るのか、自分のために着るのか
人のために着る場合、
自分の好きや嫌いではなく、人に見られて良いのかどうかが問題である。
トレンドや雑誌で言われるファッションポイントがとても重要になってくる。
メリットは
多くの人に対して印象の良いファッションを作れる。モテやすい。
デメリットは
人に見られない部屋着などオンオフが激しかったり、自分で良いものを選べないこと。人にダメだと言われたりすると自信を失ったり、人との比較をしてしまう。トレンドを押さえていないと自分が劣等生なような気がしてしまう。相手軸になる。
自分のために着る場合
好きなものを着る。着心地が良かったり、服の見えもしないディティールが好きだったりと自己満足や自分が服が好きで着ている。
メリットは
人と比較しなくてすむ。
人がどうであれ自分が好きなんだからなにも気にしなくて良い。
トレンドに惑わされない。
ワイドなパンツが流行っていても、自分が細いパンツが好きならそれを堂々と着る。
変だと言われたって好きだから自信がある。
雑誌などの着こなしテクではなく、自分でいい具合に着ようと工夫する。
自分の美的感覚を磨ける。
知らないうちにハイセンスになる可能性があるのはこっちである場合が多い。
自分軸になる。
デメリットは
無茶苦茶になる可能性はある。
人から印象が良いとは言い切れない場合がある。モテない。カッコいいというより個性的、変という区分になる場合が多い。
- 世間のルールと自分のルール
世間では常に、この色が流行り、この着こなしが良い。色は3色以内。基本は白黒、など初心者のルールを提示してくる。
果たしていつから中級者なのか誰も教えてくれない。物事はいつも実験的で、失敗を繰り返し体感で覚えていくものだ。
初心者のルールは、いってみたら誰でも好印象なファッションが作れるベーシックルールというところで、ファッション自体は自由なのだ。
もちろん合わせ技もありで、そのルールを組み込みながら自分を極めていくこともありだろう。しかしそれではなければいけなくなったり、それがなければ成立しないものではないのではないだろうか。
ファッションショーなどはたしかにショーであるけれどそんなルールを超越している。
- ファッションは少なくとも自己表現である。
身にまとうものや髪型は人に与える印象を大きく変える。
それは自分をよく見せることにも使えるし、等身大の自分を表現することもできる。
等身大の自分、または自分の興味を自分にまとうことで自分の好きなものはこれです!と自分を現すことができる。
- 高い服の利点
高い服って買う必要はあるのだろうか。高い服というよりは本当に心がときめくような服を見つけた時、安くても高くてもそれは身につけているだけで幸せな気持ちにさせる。
安いものはワンシーズンしか着ないが、本当にときめいた服は一生着る。だとしたら高くてもいいのかもしれない。
そして高い服というのは浪費ではなく、投資であることが多い。
ブランドや、デッドストックのミリタリーなど、一概に高ければ良いというわけではないけれど、高いものはいざ着ない時も高く売ることができる。安物はほとんど捨てるような値段にしかならない。
ミリタリーデッドストックで貴重なものになるとある程度着古していても数万円で取引されることもある。価値のあるものは希少で今後もどんどん値の上がるものがある。
- トレンドって本当なのか
毎年のように、今年は〜色!こう言う着こなしが新しい。ことしはコレにコレを合わせる。と言うけれどそれはどこから発信された情報なんだろうか。
外国から来たトレンドなのか、何かを売りたい人たちが考えた戦略なのか。
たしかにそれは不思議と新しく、新鮮で、カッコよく見えるのはすごいと思う。
でもそれを踏まえなければファッションはあり得ないわけではない。トレンドは楽しむための一要素で、うまく取り入れても良いし、無視したって良い。
- 一点集中の自分らしさ
モテようとする必要はあるのだろうか。
モテることはたしかに、ものすごい言動になる。あらゆる綺麗事の動機があるけれど大抵裏にはモテたい、チヤホヤされたいという純粋な動機があったりする。
モテたいからこそ、人の目を気にして自分を客観的に見ることができるし、大きな物事をやる気力を与えてくれたりする。
モテたいと思うことは決して悪いことではないし、客観的な目はある程度必要だ。
結局モテる必要あるのか。
この世の中で結婚するために必要なことは、
たった一人の、自分を好きだという相手を見つけること。 だとしたら、
あなたはあなたらしく、まるでわたしはこう言う人です。という大衆ウケはしないが、あなたらしい服装や趣味を大々的に現しているほうが良い。そんなたった一人のそれがわたしもいいと思う!という人を見つければ良い。
多くの人に自分を隠して見せる必要はないのかもしれない。
- どんな分野も興味が出るポイントはある。
ファッションに興味がない場合、服が好きなのではなくて、何を着たらいいかわからない。なぜそう思うかと言うと、この世のトレンドや一般的にいいとされるものがわからない。他人視点で「普通」に合わせようと必死になるがトレンドに踊らされて疲れてしまった。
そんな時は自分視点に立ってトレンドなんて無視して、人の目なんて無視して、自分はどんな服が好きなのかを考えてみた。
ミリタリーデッドストックに興味がある時は、その作り込みや、丈夫さやデザイン性に惹かれたりして、そこが入り口となってだんだんと服に興味がでて、ファッションに興味がでた。その大好きな服をよく見せたいからこそのルールを駆使してみたり、他の安いものも組み合わせてみたり、いい感じに見えるにはどうしたら良いのか考えたり。帽子も被ったことがなかったのに、そこを入り口にどんどんと深みにはまるように服が好きになった。そうやって磨かれたセンスは独特だけど、雑誌のルールに従っているだけでは身に付かないし、他の服を着たりするときにも応用できたりする。
一見苦手な分野、それはファッションに関係なく、勉強もそうだけれど、一般的な入り口は嫌悪感や苦手意識があっても自分の興味や趣味を入り口に自分のやり方で入っていくと、おのずと一般的なレベルに達していたり、超えていたりする。
- いつまでも好きな服を着て
本当はオシャレなんかである必要はない。人からよくみられたいからオシャレになりたいのであって、自分らしくなりたいのだとおもう。人の目を気にするのではなくて自分の思うままでありたいのだ。
自分で自分の興味を磨いて、人からどうみられるかで自分を閉じ込めないでよい。
歳をとっても、金髪で髪を立ててサングラスをかけたって良い。おじいさんだからといっておじいさんらしい服を着なくていい。
大抵どんな服装をしていても、女装をしていても、2〜3日いじったらみんな飽きてなれてしまう。そんな人なんだろう。と思う。
そんな人でありたい。
- 人が憧れるのは自信のある姿
人が憧れるのはその人がオシャレな服を着ているからではない。その人が自信を持っているから説得力を持って見える。
オシャレな人は靴下を違い違いに間違えてはいても意図があるようにさえ見せてしまう。
はげあたまを隠している人を人はいじりたくなる。でも堂々としている人はいじれない。
シワを隠そうと若作りすると必死さに引いてしまう。でもシワシワで白髪頭でもそれを受け入れて堂々としている人に憧れる。
人はそのありのままを受け入れて堂々とする姿、自信、その生き様に引かれる。
自分を自分らしく表現することを恐れなくて良い。
無職 引きこもりだった時にしてほしかったこと
無職 引きこもりだった時にしてほしかったこと
1〜2年ほど仕事を失い人にも会いたくない時があった。自分でできることはあるけれど、あの時してほしかったこと今の自分ならどうしてあげたいかを考えてみる。同じ境遇の人に接する時どうするのかの役に立ったら幸いです。
自己肯定感を上げてあげること
仕事がない時真面目な人ほど自分を責めてしまう。
なんでみんなは当たり前にできることができないのだろう。
みんなは怖くないことがこんなに怖いのだろう。
恥ずかしい。こう思われているんじゃないか。
自分はダメな奴だ。。。
プライドがズタボロで、自己肯定感はどんどん下がっていく。
それは負の連鎖で、自信がなくなると人にも会いたくない、比較してしまうから、
気分も落ちて鬱気味になりやる気もなくなる。動くこともできない。
やる気がないと、面接で落ちる。
落ちるともう何もできない気になる。。。。とずっと自分を責める流れになる。
自分自身でも、接する人も、自己肯定感をできるだけ下げず、仕事がなくても自信をつけることが実はもう一度活動していく近道だと思った。
世間体を気にしないで欲しい
接する人には世間体から物を言わないで欲しい。
本人は世間体を十分に理解している。そして既に自分を責めている。
その上あなたのために仕事をすすめていると言いながら、
近所からはこう思われたくない。こんな歳でこんな状況なんて恥ずかしい。という感情がチラつく時大きく傷つく。
相手のためを思って、その言葉は本当に相手のためなのか。自分の都合の良い方に誘導しようという意図はないか。言葉を出す前に考えたい。
世間とは違う寄り添い
本人は本人で自分を責めている。もうこれ以上焦らせたり、甘えてると叱ったり、やる気があるのかと叱ったりしないで欲しい。
自分と世間の目から十分に言わんとすることを察している。
だからそんな弱い立場に寄り添って欲しい。普通に、心配しない、で接して欲しい。信じてあげて欲しい。
信じてあげること
せめるのでも心配するのでなく、あなたならできるはずと言葉にしないでもそう信じて期待し続けて欲しい。他に救いがないのだから唯一の味方であって欲しい。
正論が傷つける
あなたのことを思って、
早く見つけないと歳を取ると大変
私たちが死んだら誰が面倒を見てくれるの。
この仕事してみたら、資格を取ってみたら、学校に行ってみたら、
やってみなきゃわからないじゃん。何事も経験。
どれもポジティブで、こちらへの愛情のある言葉だ。
でも言われなくても十分にわかっている。でもどうしたら良いのかわからず、もがいている。一歩を踏み出すのに慎重になっていて、周りが全員敵に見える。
正論や優しさ、わかっているが、なにもこたえられない。うんうん。というか、正論を一生懸命非難するか、反抗的になって口も聞かないかしかできない。
じゃあどうしたら、、
その言葉は必要だろうか。焦らせることで仕事が見つかる原動力に私はならなかった。
いろんな生き方がある
アルバイト、派遣、正社員だけがはたらきかたではない。
ブログやせどりや、ハンドメイド、youtube、内職や、クラウドワークスのようなネットの仕事、人の手伝いでもあらゆるサービスがある。どんなことででも、1円でも稼ぐことができたらよくやったと言ってあげたいし、それは仕事だ。不安定だって良い。1円でも自立できたのなら大きな一歩だと思おう。
あらゆるところから小銭をかき集めて生きてたって良い。
人から見て、胸を張れる仕事かどうかなんてどうだって良い。
自分には得意不得意、好き嫌いがある。そして今の精神状態でできることできないこと。
嫌なことを嫌々やるより、1ミリでもできそうなことを儲からなくても趣味からやり始められたらいい。
また働き方だけでなく、生き方もいろいろある。
山奥ニートのように最小限に働いてできるだけ働かないで支出を抑えた生き方もある。
そんな逃げ道も自分の支えになる。
あなたのスピードで
同世代が結婚しても子供が幾つになっても、よそはよそで良い。
私は自分を何かしらの病気か障害とでも認定してほしかった(そのような人を悪くいうつもりはなく)なぜならそのようであれば一般社会から個人の生き方になれる気がしたから。
その人の人生はその人のもので、その人の成長のスピードがある。
みんながこうしているからといってそれに合わせさせようという世間体を捨てて欲しい。
ゆっくりがんばって大人になっていると思って欲しい。人が20歳でできることを30、40年かけてしている。
仕事を早く始めて欲しいのもいつまで支えたら良いのかも、死ぬまでに自立させたいのもわかっている。
でも急かすことは解決にならない。
仕事をやめたのなら、ゆっくり休んでゆっくり考えたら良いと大きな懐で包んで欲しい。
友人にそう言われた時とても救われた。
ゆっくり自分の道を探せるように、好きなことをできるだけして得意を見つけていくように猶予を与えて欲しい。
実は人は本当に何もせずにはいられない。
本当に休めると、何かしら活動したくなる。物を作りたくなったり、書いてみたくなったり、音楽を作ったりパンを作ったり、うどんを売ったり、自転車をいじったり、壁を塗りたくなったり、
そのクリエイティビティは十分仕事になる可能性があったりする。
だから心配はしないで十分に休んで心の傷を癒すこと。心が元気になって初めて活力が生まれる。遊ぶように自由にしたいことをして、そこから切り替えるのでなくて、そのままそれを活かせるようなサービスや仕事を見つけていく。ゆっくり。
いけないのは、焦ること、これは心を傷つけるばかりで充電してくれない。そうすると時間がもっとかかる。自己肯定感を下げ、何もできなくなるばかりだ。
時間がかかるということは、休んでいるように見えても心は疲れ切っている可能性がある。
死ぬよりはマシ
私が苦しい時生きるために思っていたことを接する人にも思っていて欲しい。
[命を落とすか、みんなに非難されてもニートでいるか。と考えると生きていてくれた方がマシ。]
ということだ。
死なれるよりニートの方がマシ。
だったら這いつくばって惨めに生きてやろうと私は思えた。
ニートや無職、引きこもりの人と接する時、死んでしまうよりかはマシだといつも思って欲しい。甘えだがそうだ。いつもその比較の中で生きていることを偉いと思って欲しい。
辛そうに見せなくても相当辛い
本当に鬱になるまではその人のキャラにもよるが私は明るく振る舞おうとした、でも1人になると自分の言葉も含めて自分を責めていて、鬱状態だったと思う。
落ち込んでいないから平気だと思わないで欲しいし、厳しい一言はいわないでほしい。
必要なら精神科に行きやすい環境
生真面目な人ほど自分を責め続けてしまう。そこで家族の優しさや正論、世間の目がかなり精神を蝕んでいる。どう進めるのがベストかわからないが、自分たちでどうにかするのでなく、気軽に精神科に行ける環境があったらよかったと思う。
休むことと同様に、自分の中で踏み出せない理由や言えない吐き出したい気持ちを明確にケアすることがむしろ新しく動き出すための近道かもしれない。
仕事はアイデンティティではない
自分を責めている理由の大きなものは、仕事がないとまるで自分はいない、価値がないと思ってしまうこと。
また接する人も、仕事をしていない人はダメな人と決めつけた言い方をすること。
でもそうだろうか。
アイデンティティは存在にある。
生きているだけ、何もしていなくても、何の経歴もなくても、裸でも、その人には価値がある。赤ちゃんが産まれて何もできないのに大事だと思うように大事だ。
これは全ての状況を打破するものではない。私に取って必要だった言葉を考えてみた。
自己満足のためはダメなのか
自己満足のためはダメなのか
- 正しいかではなく何が問題か
正しさでははかることができない。何か問題はあるのか。
- 人のためは本当に人のためか
どんなに良い行いをしようとしても結局どこかで見返りを求めてしまうものだ。
人のために自分は苦しんでいい。なんていうのはすこし過剰な信仰心のようであまりピンとこない。
お国のために命をかける。みたいなことで、その時代はそうだとしても、それは間違いだったと言うことが今ではわかっている。
会社のために命を捨てろ。仕事のためには命をかけろなんてのは賛成しない。仕事は全てではないから。
人のためと言いながら、結局自分の喜びが味わえることで最終的に満足したりする。人のためにすることは自分のためだ。人にすれば自分に返ってくる。返ってくるからこそするのだとさえいう。
たまに猫や動物の保護のために命さえ惜しまないほどハードに働く人たちもいる。
そう言う人たちはすごい使命感を持っていて、マザーテレサや聖人のようにわたしには見える。
まったく人や動物のためだけに自らを捧げる人がいないわけではないと思う。ただわたしの理解を超えているだけで。
- 自分のためはいけないのか
他人を喜ばせることは自分の喜びにつながる。
同じように自分の喜びを追求した先にひとをよろこばせることもある。
親切のつもりもなく言った一言が人の人生を変えたり、
楽しんで覚えた魚の知識が世の中の役に立ったり、
自分が楽しくて作っているものが他の人の心に癒しを与えたり。
ただその自分の満足がひとのためになるものもあれば人の害になる場合もある。
- 和を乱す場合
昔、のだめカンタービレを見ていたら一人の登場人物の演奏に対して、「お前の演奏はオナニープレイだ」みたいなことを言っていて、なんとなく、独りよがりや自己満足ってだめなことなのか。と思った。
でもそこで言いたかったのはたぶん、皆で演奏している中で和を乱すような自分勝手な演奏をしていたからだろう。つまり和を見出した。全体を見ていないこと。協調していないことを言っていたのだろう。
- 和を乱すことはだめなのか?
そもそも和を見乱してナニが悪いのか。
人間の価値観は異なって当然だし、各々の問題があるものだ。相手を強制して一つの集団に属させ、出る杭を打つようなことをすべきだろうか。
和 日本的な和は皆が皆に気を遣って迷惑をかけないこと。になんか似ている。各々の個性を消して、一つの集団になる。それは和なのだろうか。
- 迷惑をかけることは悪いことなのか
日本では、
人に迷惑をかけるな。という。
インドでは、
人に迷惑をかけるのだから、他人も許しなさい。というらしい。
これはとても面白い違いだ。
だとしたらインドの和は
「互いに迷惑を掛け合い、その個性を許し合うこと。」
なのではないだろうか。
人は迷惑をかけまいとしても誰かには迷惑をかけているものだ。
だれも一人で生まれて、一人で死んだ後の始末はできない。迷惑をかけていいのだ。
- 理想的な循環
自分の満足、楽しいこと、好きなことを追求する。それが人を満足させること。
自分がものを作るのなら、
自分が満足するものを作る。それに共感した人たちがそれを買う。そうして共感と購入されることからまた自分も満たされる。
- 自分のためにすることの良い点
・やめることがない。
人のためにすると、人がいらなくなった時、もう作ることやすることをやめてしまう。でも自分が好きで作るのならそれは買われようが、買われなかろうが続けていくだろう。
・軸は自分にある。
人のほしい物にフォーカスすると何が売れる、何がウケる。そんなことに惑わされて、好きでもないのにやることになる。
そうするとイヤイヤ作ることになる。
そんなふうに作られたものは欲しくもなくなる。悪い循環をうむ。喜んで作られたものは購入しても嬉しい。
人の欲しいものに左右されると何を作ったら良いのかわからなくなり、個性もなくなる。
だれにうけるのかわからないが、自分が良いというその意思を形にしているのなら、どこかでかならずそれが良いと言う人が現れる。
そうなると自分と同じ価値観の人に出会えた喜び、共感してもらえたことがまた喜びになる。
- 自分もお客の一人だと思う。
聖書にはこんな言葉がある。
自分を愛するように、汝の隣人を愛しなさい。
一見、隣人、周りの人を愛しなさいと言っているように思えるが、自分を愛する。と言うことをできている人はどれだけいるのか。
つまり自分を愛せないで人を愛せるのか。ということになる。
なぜ自分を愛せるのか。それほどに自分というものも他人と同様に価値がある存在だと言うことを認めるということ。
わたしは自分をお客の一人、最大のファンだと思うようにしている。
観客の一番前に熱狂的なファンの自分がいる。
自分を喜ばせられるものを作ると、そのファンも喜ぶ。だって自分だから。そしてその奥に共感する多くの人がいるのだと思う。
わたしがイヤイヤやる時、そのファンはがっかりする。それは後ろにいる多くの共感者もがっかりする。
自分を喜ばせることは多くの共感する人を喜ばせることだと思う。
- 自己満足でもいいじゃない。
ダメだなんて誰が言う権利があるのか。
自己満足で良い。自分の「好き」を追求していき、自分を満足させる。それは人のためにもなる。自分の幸せ、満足をお裾分けする。そうやって仕事や人生が成り立つのならなんで幸せなんだろう。
できないことは放置してみる
できないことは放置してみる
英語を話せるようになりたい。
ゲームもっと上手くなりたい。
料理上手くなりたい。
ギター弾けるようになりたい。
でもこれはもう才能がないと思える時がきて、辞めてしまう。
でも辞めた。これはむいてない。才能ない。と言わないで。
一旦放置していることにしよう。
そうしたら現在進行形でやってることになる。
意外と、時間が経つと客観的に今までのやり方の間違いを見つけり、バスケやってた頃はNBAなんて興味なかったな。今は興味がある。みたいな興味が湧いたり、YouTubeみたいな新しい手段で学べるようになったり、時間と共に状況はかわる。
その時が始める時でなかっただけで、あるときスッとできるようになったりする。
中学、高校となんのためなのかわからないのに英語の勉強をしても身にならなかったのに、外国人と関わらざるを得ない環境に入って、喋れるようになりたいと思い勉強したらあっという間に喋れるようになったなんてこともある。
放置しっぱなしでもう実際はやらなくなってても別に誰も迷惑しないからいいのだ。
- 別にプロにならなくていいなら諦める必要もないのでは。
それが仕事や一世一代のカケでないのなら、いや仕事であっても超一流である必要ってあるのだろうか。
ギターが自分の好きな曲が弾けたら楽しい。べつにCD出すわけじゃないけど。
料理上手と家族に言われる。三つ星のレストランを開きたいわけではないけど、
歌がうまいと友達に言われる。歌手にはならないけど。
必要なのは自分が楽しいことや自分の満足のレベルになればいい。超一流の人でさえ入り口はそこかもしれない。
あきらめるのでなく、放置する。今はやめてる。そう言うことにしよう。そうしたらまだたくさん可能性を残しておける。
猫の哲学 あきらめない猫
あきらめない猫
- なんであきらめないのか。考える。
新入り猫が来た。
3匹の先住さんたちにめちゃくちゃ怒られる。
こっちに来んな!
テメェ誰だ!
怒られると逃げて隠れる。でもなぜか何回も出てくる。
こんなバイト先だったら辞めてる。
おつぼねがいて、誰だ!帰れ!って顔を合わせるたび言われるバイト先。
なんでそんな状況でも猫はあきらめないで毎回顔を出すのか。
忘れてしまったのか。
仲良くなりたいのか。
なんとも思わないのか。
人間は怒られるとなんだか自分が全否定された気持ちになる。特にわたしは
お前誰だよ!新人!帰れ!そういわれたら、なんでそんなこと言うの。なんでそんなあたり方するんだ。なんて人なんだ。嫌われてるのかな。変な顔してたかな。なんか悪いことしたかな。色々考える。自分のせい?と自分を見直したりする。
猫はどう感じてるのだろう。
お前誰だよ!新人!帰れよ!
なんでこいつ怒ってんだ?
なんか怖いなこいつ。
やなやつだな。
ちょっと時間経ったし、今行ったら機嫌いいかも。
と顔を出す。
猫とは10秒後には気分変わってたりする。
反省なんかしない。
人間からすると懲りないでよく行くよな。と思うけど、猫同士、そんなに長いことお互いに引きずってない。
それでいて自分の責任なんて考えていなそう。自分目線で他の奴らがなんかやな感じっていうぐらい。
人間は人の気持ちを察するが故に、人の気持ちからまた自分を考えてしまう。
でも人が何を考えているのか。実は伝えられるまではわからない。
自分はどう感じるのか。自分の目線から見てどうなのか。猫はそうやってシンプルに生きてるから懲りない。
働くってなんなんだ。自由と手間
働くってなんなんだ。自由と手間
- お金ってなんなのか。
お金がないとどう生活するのか。
坂上動物王国を見ていて、田舎で自給自足をする家族の話をやっていた。
お金を使わないで暮らすということは、
「全ての手間を自分で行うこと」
肉を食べるには動物を捕らえ、しとめ、捌いて、調理して、食べる。
野菜も、育てて、食べる。
火を使うのにも、薪や炭を焚いて使う。
水を飲むのも、湧き水を組んだり、井戸を掘って飲む。
お金で解決できるのは、
「手間」を省くこと。
人がその手間をおってくれるから、
調理するだけのお肉や、いつでも食べられる野菜があり、ガスが通り、風呂は自動で生きられる。
- 働くってなんなのか。
その手間を追うために自分の「自由時間」を捧げることだ。その見返りにお金をもらう。
人には面倒なことをするのだから、仕事は面倒だ。
- 働くことと自給自足のジレンマ。
そのテレビを見て、たくさんのコメンテーターやわたしも思った。
なんで自由なんだろう。こうやって生きていられたらなあ。。
働くことは、人の手間をおってあげるために、自分の自由時間を捧げている。
その自由な時間を全部自分で手間を負って生活するか、
自由時間を捧げているというのでは同じだが、
人の手間を負って稼いだお金で→自分の手間を省いている。
なんだかよくわからなくなってきた。
もし仕事が報われるのだとしたら、、
その人にとってなんなくできたり、楽しかったりしたら幸いだ。
それは適材適所で、それでこそ社会であってみんなで自分の嫌な部分、不得意な部分を得意な人たちで負いあってみんなで幸せになる方法だから。
ただ嫌な仕事は苦痛だ。自分でも苦手な手間を自分でやっているからだ。
そして嫌な手間を負って稼いだお金で手間を省いて生活をする。
話を戻すと。
自給自足に憧れるわたし。たち。
キャンプであえて手間を楽しんだり、
老後自由になったら、山奥で自由に暮らしたい。
お金ができたら自由な生活を。
と思うが
手間を惜しまなければ(必要以上に)働く必要はないし、(人に手間を負ってもらう必要はない)
自分の力で生きられる知恵や知識と能力があれば、お金(人に手間を負ってもらう)も必要はなくなる。(日本で避けられない税金などはあるけれど。)
なんだかおかしなことは
働いて稼いだお金であえて手間をかけているということ。
それは自由だけれど、
テレビでこんなことを言っていた。
自作の露天風呂にはいったタレント。
薪で沸かして、星空を見ながら、虫の声を聞きながら
「普通、お金を稼いで、お金を支払ってこれをする。
でも自分でやればいつだってできる。」
- 自由⇄手間
自由時間を何に使うのか。
手間を省くために、
人の手間を負うのか。
自分のために負うのか。
自給自足は容易ではないし、知識も覚悟もない。
でもその手間を負う割合をコントロールすれば、決して裕福である必要はないのではないだろうか。
自由をなんのために使うのか。大切な自分の時間。嫌なことのためになんか使いたくない。
自分のために使うには
→知識、知恵、労力、能力、手間が必要。不得意な分野を自分でこなす必要がある。
人のために使う
→自分にできることをする。できるだけ得意なことをできたら幸い。基本的には人の嫌な手間を負うのだから嫌なことをするために自由を割かれる。
手間を省く
→自分にできないこと、無理なこと(わたしなら動物を仕留めることとか)はお金を支払い、できることは自分で負っていく。
自分で負うほど仕事には時間をかけなくて良い。(自由時間が増える)
自分では手間を負いたくないほど、裕福である必要はある。
でも手間を楽しみたいのなら、お金を支払う必要はない。
- 何が不自由さを感じさせるのか
自給自足の生活をみていて、羨ましい。自由だなぁ。と思う。なんでだろう。
それは都会では無理なことができるから、
自由に野を駆け巡ったり、炭火をおこしたり、大声を出して笑っていても誰も気にしない。川で遊んだりそういう自由も羨ましい。
でも仕事に追われず、自分でなんでもできる。という姿に憧れてもいる。
「仕事をしているのは、生活のため。」
なんだかお金がなくなると生きていけないのではと漠然と感じる。
でもこうやって知識、知恵、意思をもっていれば人は生きられるんだなあということ。
本当は社会全体で嫌なことをやってもらってるけど、自分でやれば生きられるんだなあということ。当たり前のことだけど。
そんなに簡単なことじゃないけれど
お金から自立して、人は生きられるということを改めて気付かされたように感じた。
才能ってなんだろう
才能ってなんだろう
・なんだって才能になりうる。
努力する才能
継続する才能
鈍感な才能
普通に考えたら一般的な能力も他の人ができないほどになると才能と認識される。
・デフォルトの才能
たしかに最初の段階から何故か難なくできる人とそれが苦労しないとできない人がいる。
どこで歌をそんな幼く習ったのかと言うほどデフォルトで歌の上手い子どもや英語にたけたこがいる。
・気づいた時から伸びる才能。
それに出会うまでは平凡だが、気付いたその時から普通の人を遥かに超えてしまう。もしくは楽しんで難なくできる。
目が見えなかったのに、ピアノをやり始めたらとても上手くなったとか、将棋を父が買ってきてのめり込んでやるようになったとか。
・その時だけの才能、天才。
子供の天才は他の子供より秀でていて、大人もびっくりするレベルだったりするとみんな天才だという。
子供なのに絵が上手い。ピアノが上手い。ドラムができる。
でもそれは早い段階で大人レベルなだけで、確かに才能だが、大人になるとある程度普通のレベルだったりする。
・客観的に見てひいでてるだけ
これは誰からの目線で「才能」「天才」だといっているのだろうか。
結局ノーマルな人からみて、あいつ俺よりすげえとなった時点で才能と呼んだり、
遥かに追いつけないと天才だと言う。
努力できない奴の言い訳だといったりもする。
・天才がしているのは努力なのか
魚の名前を覚えろと言われて10時間勉強することを努力だと感じる。
いやいややっていることも努力だが、夢中でやってることも努力であるのには違いない。
魚好きの人にとっては20時間図鑑を握りしめて読んでいてもその人にとってのその努力は遊びや楽しみに含まれてしまう。
そういう意味では努力を努力と思わない才能なのかもしれない。
その人にとってはあまりにも難のないこと。
夢中の人に努力はかなわないとはまさにその通りだろう。
・得意なことってなんだろう。
朝ドラで言っていた。
「人よりほんの少し努力するのがつらくなくて、ほんの少し簡単にできること」(朝ドラ エールより)
その人にとっては辛くない。そして少しだけ簡単なこと。
魚の名前を覚えるのは私にはあまりに辛い。
その人その人にどこか簡単にできることがこの世の中には眠っている。それを見つけた人は、才能がある。そして人から見てかなり秀でていたら天才だ。
・天才である必要はないし、多くの人は小さな才能を生かしながら生きている。
天才はそれなりに大変な使命を持っているのかもしれない。
別にトップでなくても才能が生かされる場所はある。
時代を変える漫画家にならなくても面白い漫画家もいる。
ボタンを連打する才能やけん玉の才能、ゲームの才能、チャーハンだけ上手に作れる才能、人の気持ちを察する才能、リーダーになる才能、ボランティアには行かないではいられない才能、捨て猫をほっとけない才能。。。
人に誇れなくたって人が才能と判断しなくても、それは実は秀でていたりする。上には上がいても、その人にはその人のやれることがある。
・才能のある分野の中でも細分化されていく。
絵を描くのが好きだ。
でも彫刻より平面がすきだ。
絵を描くのが好きでも、ギャラリーや宣伝、人間関係がどうも苦手だ。
→芸術家は諦めよう。
こうなると
まるで絵の才能がなかった。。とすり替えられて夢破れた感じになる。でもそうではないはずだ。
・夢破れているのか。細分化されただけだ。
↑からすると
夢破れたのは → 芸術家になること。
とくに→ ギャラリーやお客さんと触れ合うことや、あらゆる人間関係を作ること、作品を宣伝して回ることやあらゆるコネクションを作ること。
であって、絵を描くこと、物を作ることではない。
絵を描くことや物を作ることでできることはまだたくさんある。
その中で自分がピタッとフィットできるより才能を活かせる辛くなくて少し簡単なことを見つけられたらそれが天職になる。
人生で早くにそれを見つけた人は確かに幸せだ。そこでの苦悩も確かにあるだろう。
早く見つけられる人もいれば人生長く渡り歩きながらようやく巡り会えるパターンもある。
けして秀でなくても、トップにならなくてもそのピタッとはまれる場所をみつけられたらそれで幸せなのだ。