働くってなんなんだ。自由と手間
働くってなんなんだ。自由と手間
- お金ってなんなのか。
お金がないとどう生活するのか。
坂上動物王国を見ていて、田舎で自給自足をする家族の話をやっていた。
お金を使わないで暮らすということは、
「全ての手間を自分で行うこと」
肉を食べるには動物を捕らえ、しとめ、捌いて、調理して、食べる。
野菜も、育てて、食べる。
火を使うのにも、薪や炭を焚いて使う。
水を飲むのも、湧き水を組んだり、井戸を掘って飲む。
お金で解決できるのは、
「手間」を省くこと。
人がその手間をおってくれるから、
調理するだけのお肉や、いつでも食べられる野菜があり、ガスが通り、風呂は自動で生きられる。
- 働くってなんなのか。
その手間を追うために自分の「自由時間」を捧げることだ。その見返りにお金をもらう。
人には面倒なことをするのだから、仕事は面倒だ。
- 働くことと自給自足のジレンマ。
そのテレビを見て、たくさんのコメンテーターやわたしも思った。
なんで自由なんだろう。こうやって生きていられたらなあ。。
働くことは、人の手間をおってあげるために、自分の自由時間を捧げている。
その自由な時間を全部自分で手間を負って生活するか、
自由時間を捧げているというのでは同じだが、
人の手間を負って稼いだお金で→自分の手間を省いている。
なんだかよくわからなくなってきた。
もし仕事が報われるのだとしたら、、
その人にとってなんなくできたり、楽しかったりしたら幸いだ。
それは適材適所で、それでこそ社会であってみんなで自分の嫌な部分、不得意な部分を得意な人たちで負いあってみんなで幸せになる方法だから。
ただ嫌な仕事は苦痛だ。自分でも苦手な手間を自分でやっているからだ。
そして嫌な手間を負って稼いだお金で手間を省いて生活をする。
話を戻すと。
自給自足に憧れるわたし。たち。
キャンプであえて手間を楽しんだり、
老後自由になったら、山奥で自由に暮らしたい。
お金ができたら自由な生活を。
と思うが
手間を惜しまなければ(必要以上に)働く必要はないし、(人に手間を負ってもらう必要はない)
自分の力で生きられる知恵や知識と能力があれば、お金(人に手間を負ってもらう)も必要はなくなる。(日本で避けられない税金などはあるけれど。)
なんだかおかしなことは
働いて稼いだお金であえて手間をかけているということ。
それは自由だけれど、
テレビでこんなことを言っていた。
自作の露天風呂にはいったタレント。
薪で沸かして、星空を見ながら、虫の声を聞きながら
「普通、お金を稼いで、お金を支払ってこれをする。
でも自分でやればいつだってできる。」
- 自由⇄手間
自由時間を何に使うのか。
手間を省くために、
人の手間を負うのか。
自分のために負うのか。
自給自足は容易ではないし、知識も覚悟もない。
でもその手間を負う割合をコントロールすれば、決して裕福である必要はないのではないだろうか。
自由をなんのために使うのか。大切な自分の時間。嫌なことのためになんか使いたくない。
自分のために使うには
→知識、知恵、労力、能力、手間が必要。不得意な分野を自分でこなす必要がある。
人のために使う
→自分にできることをする。できるだけ得意なことをできたら幸い。基本的には人の嫌な手間を負うのだから嫌なことをするために自由を割かれる。
手間を省く
→自分にできないこと、無理なこと(わたしなら動物を仕留めることとか)はお金を支払い、できることは自分で負っていく。
自分で負うほど仕事には時間をかけなくて良い。(自由時間が増える)
自分では手間を負いたくないほど、裕福である必要はある。
でも手間を楽しみたいのなら、お金を支払う必要はない。
- 何が不自由さを感じさせるのか
自給自足の生活をみていて、羨ましい。自由だなぁ。と思う。なんでだろう。
それは都会では無理なことができるから、
自由に野を駆け巡ったり、炭火をおこしたり、大声を出して笑っていても誰も気にしない。川で遊んだりそういう自由も羨ましい。
でも仕事に追われず、自分でなんでもできる。という姿に憧れてもいる。
「仕事をしているのは、生活のため。」
なんだかお金がなくなると生きていけないのではと漠然と感じる。
でもこうやって知識、知恵、意思をもっていれば人は生きられるんだなあということ。
本当は社会全体で嫌なことをやってもらってるけど、自分でやれば生きられるんだなあということ。当たり前のことだけど。
そんなに簡単なことじゃないけれど
お金から自立して、人は生きられるということを改めて気付かされたように感じた。