正しさを捨てて
正しさを捨てて
正しさを信じていると、
争いが起きる。
正しさ
普通
一般常識
〜すべき
(普通、一般常識、正しさ、すべき、をFITSと呼ぶことにする。相手をはめ込ませると言う意味では良い。)
これらは信頼に値しない。
正しさがぶつかり合って戦争は起きる
正しいと思い込んだ悪がネットで集団で叩く
悪いことをしていても本人は正しいと思っていたりする。その人にとってその行為は正しいのだ。
普通。それは今ここのコミュニティでだけかもしれない。家族、町内、日本、アジア、世界。宇宙ではまた違う普通がある。
〜すべきというのもこの狭い普通や一般常識をあたかも当たり前のように刷り込むための言葉だ。
あなたは正しい。わたしも正しい。あなたも間違ってる。わたしも間違っている。
わたしはイタリアでは🇮🇹自由だったが日本🇯🇵では不自由だ。(少しだけイタリアにいたことがある。)
それはそれぞれの国のFITSに従おうとするからだ。
イタリアでは考えなかったこと。
仕事は一生懸命すべき。とか
休んではいけない。とか
働かない奴は残念。とか
結婚しない人は可哀想。とか
30も過ぎて実家暮らしは可哀想。とか
イタリア🇮🇹ではどうか
そんなに働かなくても幸せはある。
休んでなんぼだし、休まないと仕事にならないし、休むために仕事している。
仕事なんか人生のめんどい部分なんだからさっさと終わらせて切り替えて飲みたい。
働かない大学卒業生がどんなけいるかわからないが楽しそうだ。
結婚なんてほとんどの人はしないが一緒に住んだり恋愛したりする。
30過ぎたってマンマが好きでマンマが養ってたりもする。
いかにFITSが間違いか。その常識、普通は場所が変われば変わるのだ。
あなたのアイデンティティが自分を作る。その自分でどんな場所でも自信を持って生きたら良い。
せっかくイタリアに行っても🇮🇹失敗としてしまいなかったことにして日本で日本人らしく生きる必要はない。
郷には言って郷に従う必要ある?
学んできたこと、体験したこと、その常識は今でもイタリアでは変わるかもしれない。
でもその時感じたこと、体験したことが自分を作る。それを捨てる必要なんてない。
あなたはそれを体に蓄えて生きたら良い。
日本にいたって日本のように生きる必要はない。いろんなもののハイブリッドとして生きたら良い。
あなたはハイブリッドだ。
もうイタリアに行く前の日本人の自分とは違う。どう頑張っても染み付いてしまった価値観がある。それは井の中の蛙では知ることのできないあたらしいFITSだ。
- ここで現れてくるのが、正しさだ。
いつも相手の方が正しいと思っていると自分はどこにいるか
自分は相手より劣っている。知識や経験がない。と低くしている。
この日本人の愚かな謙虚さは不要なものだ。
how どうかんがえるのか
自分も自分の今のアイデンティティ(今までの知識や価値観経験全てで構成されている最高の自分)でアイデンティティと向かい合う。
どちらが上かを問うものではない。
言うなれば情報交換、共有に近い。
相手の意見によって、自分が無価値になることもない。その人のFITSが自分を拘束するのものではない。自分の意見も同じだ。
ヘェ〜と聞いてヘェ〜と流しても良い。
また新しいFITSを自分の体験として感じて、自分の世界を広げるために会話はある。
会話とは、新しい相手のFITSを取り入れる機会であり、それに拘束されることも、自分を失う危険もないモノである。自分を拘束されそうになったらその話は無視しても何も悪くはない。
人は年齢や性別に関わらず平等で、だれも人のことを上にしたり下にしたりはできない。おのおのの正しさを知りながら強制せず、自分も自由をもっている。
普遍的な正しさは存在しない。その幻想を捨てないと上か下の話になってしまう。
普遍的正しさを信じる
=誰かが正しく、自分は間違っている可能性がある。拘束される。不自由
各々の正しさがある
=各々が正しい、各々が間違えている可能性がある。各々は自由。他人に左右されない。
変わらない真実、変わらない正しさ、普通、常識、それは存在しない。それをあきらめろ。それを追っても見つけられない。あるとしたら神かどうかくらい。人には作り出せない。それを知ることによって、自由になり、自分を大切にできる。