猫とデンデンムシ

自分のために書いたものをシェア。支離滅裂、一貫性なしの個人的な意見です。

全てを肯定できるのか 0地点の💮

全てを肯定できるのか


  • 全てを肯定してみたらどうか

まず相手を否定して、、


いやそれは違う。いやむしろ。そうじゃなくて。

と言う言葉を


うん。へぇ。そう。たしかに。そう言う考えもあるね。君はそう思うんだね。

と変えてみたらどうなるのか。


  • これは肯定というより、相手の存在を認めることだ。


相手と相入れないことや、どうしても倫理的に受け入れられないことはある。

たしかに。 と

君はそう思うんだね。 とでは全く違う。


・後者は自分を切り離して、相手の意見を理解しようとしている。


  • 相手を否定することなどできるのか


この世の中には本当の意味での真実などない。

普通や正しさなどどうやってだって作り出せるし住む場所で変わる。

アメリカでは特にそうだろう。あらゆるバックボーンをもつ人種があらゆる宗教観、思想で存在する。

相手の意見を一概に違うと言えるのか?

仏教徒の人の思想で、キリスト教の人やイスラム教の思想の人を違うと言い切って良いのか。

この多様性の時代に、、


相手の意見は、自分から切り離されたもので、切り離された価値観、倫理観、宗教観にある存在として対面している。


おれは間違ってるなぁと思っていても、その人にはそうなのだ。

だから、そうかな、そういうのもあるね。になる。


  • 素直に違うと意見をぶつけたって良いのでは?

why

各々違うのだから各々の価値観を相手にぶつけることだって良いはずだ。ケンカしないのがいいとはいいきれないから

how

たしかに。

あなたはそう思うのね。

私はこう思う。


それは発言権はある。

それは 相手を制することでも議論に勝つことでも、どちらが正しいのかを決めるためではない。


ただ相手の意見を聞くのと同様自分も一個人として意見を述べている。

同じなら同じ、ちがうなら私はこう思うと。


  • ようは捉え方と言い方なのでは?
  • why

言い方次第で人は話すら聞かなくなる。

人は否定されると拒否反応がでる。まるで自分の存在やアイデンティティまで否定されている気がするから、特に日本では、


how

相手にその人個人と自分個人を明確にさせながら話すことで、相手は受け入れられる気持ちになるし自分の意見も相手には何の影響もないことを示すことで攻撃的ではなくなる。







  • 一線はあるのか

やはり言うても全てを肯定して良いわけではない。

たとえば相手が人を殺そうとしていたり、自殺をしようとしていたり、テロを計画していたり、麻薬をやろうとしていたら、うんうんと聞いていられるのか。いやそうやって落ち着いて説得することもあるだろう。でも倫理的法律的に無理のあることは、究極的には許すこともあるのだろうか。

そのときは相手の陣地に踏み込んでも止めなければいけない時がある。


ただ、相手の陣地に踏み込んで、それは間違ってる!!といったところで相手をコントロールできるわけではない。


ただ、罪にならないことなら何でもする。と同様に、法律に違反しないことに関しては皆が自由なのだ。


  • 肯定することは自分自身にも当てはまる。


自分を肯定すること。

これは自己肯定感をアップさせるためにとても大切だ。


自分を否定するほど

自己肯定感はさがる自信がなくなる人の方が優れて見える自分でなく人の意見の方を聞いてしまう。自分の軸がなくなる人の意見で落ち込んだり気が滅入る。。。。


どんどん負のスパイラルに落ち込んでいく。


この時、相手と自分を切り分けるのとは少し違う気がする。

自分の最大の友達、絶対に自分を否定しない応援者、仲間、絶対見捨てない家族のような存在であって欲しい。

自分に対してそのようであるとき、きっと人に対してもそうなることができる。


うまく働くことができない。セーブしてるけどみんなはもっと働けと言う。どうしよう。

君の状況を知ってるのは僕自信だ。君は間違っていない。ゆっくりやれば良いよ。


自分に優しくしてあげる。

甘やかしではないのか?ほっておいて食っていけなくなったら責任取れるのか?

責任を取るのは誰なのか、それは自分だ。自分で許して自分で責任を取るのなら何か間違ったことはあるだろうか?

じぶんをあまやかすことはわるいことか?

what

厳しくしたらどうなるのか。

たとえば

お前は怠け者だ。こんなこと他の人にもできるぞ、何でできないんだ。働かないと金もなくなるぞ、周りの目は気にならないのか?親に心配させて、悲しくないのか?生きてる価値あんのかー??


なんていったとする。

しかしおどろくことにこの言葉こそ普段自分にかけている言葉だったり、無意識に感じてしまうものだったりする。


その言葉はある意味では真実かもしれない。

でももうわかりきったその言葉は自分の助けになるのか?


人のために、世間一般のレベルに、人の目を気にして、人の名誉のために、、

そんなことのためにいじめてなんになるだろう。

たぶん気が滅入るのがオチだ。それは自己肯定感を下げているのも一つある。


猫をどんなけしかっても言うことなんて聞かない。猫をしつけるには、猫の望むことをさせながら、その習性を利用して望む方にコントロールしていくことだ。

猫だけでなく、警察権の訓練も犬にとっては遊びだと思っている。

遊び、褒められること、楽しいことが形を変えて人間の(世間の)望みに合うようにコントロールされることが一番自然で望ましい。誰も嫌な気持ちにならない。


悪い言い方をすると、

自分を肯定して、優しくして、そうしながら自然とみんなができるレベルへ誘導、導いている。

自分を肯定すること裏切らないことは、最終的に良い結果を生む。

他人の目や、人は何も知らないでこちらをひどくいったりそう感じさせたりすることがある。どうであれ自分だけは自分の行動に対していつも寄り添い、裏切らず、優しく、親切で否定せず、甘やかしてあげることは何より大切だ。

自分を責めてはいけない。

もう十分に責めた。その結果は何も生まない。ただ動けなくなるだけだ。

無意味なことはやめよう。悪く言うのは自分以外にまかせ、自分は自分を好きになろう。


  • 当たり前ができることは実はすごい。できるからすごいのでなく存在すること自体が奇跡だと思う。

この地球がどれほどの奇跡の上に存在しているか、私自身もその奇跡の上に親が生まれ、その奇跡の上に存在している。

人間は何を成し遂げなくても、どんな容姿でも、存在していること自体が奇跡なのであり、生きているだけで凄いのだ。

何かを成し遂げる必要はない、ただ当たり前のこと、誰でもできること、些細なことでさえ奇跡の上に成し遂げられたそれもまたすごいことなのだ。


人の価値は0地点にある。それを否定してはいけない。

凄いと言う価値のハードルを0にする。

働いていなくても、結婚してなくても、生きている、存在しているだけで凄い。よくできました💮なのである。