猫とデンデンムシ

自分のために書いたものをシェア。支離滅裂、一貫性なしの個人的な意見です。

全てを肯定できるのか 0地点の💮

全てを肯定できるのか


  • 全てを肯定してみたらどうか

まず相手を否定して、、


いやそれは違う。いやむしろ。そうじゃなくて。

と言う言葉を


うん。へぇ。そう。たしかに。そう言う考えもあるね。君はそう思うんだね。

と変えてみたらどうなるのか。


  • これは肯定というより、相手の存在を認めることだ。


相手と相入れないことや、どうしても倫理的に受け入れられないことはある。

たしかに。 と

君はそう思うんだね。 とでは全く違う。


・後者は自分を切り離して、相手の意見を理解しようとしている。


  • 相手を否定することなどできるのか


この世の中には本当の意味での真実などない。

普通や正しさなどどうやってだって作り出せるし住む場所で変わる。

アメリカでは特にそうだろう。あらゆるバックボーンをもつ人種があらゆる宗教観、思想で存在する。

相手の意見を一概に違うと言えるのか?

仏教徒の人の思想で、キリスト教の人やイスラム教の思想の人を違うと言い切って良いのか。

この多様性の時代に、、


相手の意見は、自分から切り離されたもので、切り離された価値観、倫理観、宗教観にある存在として対面している。


おれは間違ってるなぁと思っていても、その人にはそうなのだ。

だから、そうかな、そういうのもあるね。になる。


  • 素直に違うと意見をぶつけたって良いのでは?

why

各々違うのだから各々の価値観を相手にぶつけることだって良いはずだ。ケンカしないのがいいとはいいきれないから

how

たしかに。

あなたはそう思うのね。

私はこう思う。


それは発言権はある。

それは 相手を制することでも議論に勝つことでも、どちらが正しいのかを決めるためではない。


ただ相手の意見を聞くのと同様自分も一個人として意見を述べている。

同じなら同じ、ちがうなら私はこう思うと。


  • ようは捉え方と言い方なのでは?
  • why

言い方次第で人は話すら聞かなくなる。

人は否定されると拒否反応がでる。まるで自分の存在やアイデンティティまで否定されている気がするから、特に日本では、


how

相手にその人個人と自分個人を明確にさせながら話すことで、相手は受け入れられる気持ちになるし自分の意見も相手には何の影響もないことを示すことで攻撃的ではなくなる。







  • 一線はあるのか

やはり言うても全てを肯定して良いわけではない。

たとえば相手が人を殺そうとしていたり、自殺をしようとしていたり、テロを計画していたり、麻薬をやろうとしていたら、うんうんと聞いていられるのか。いやそうやって落ち着いて説得することもあるだろう。でも倫理的法律的に無理のあることは、究極的には許すこともあるのだろうか。

そのときは相手の陣地に踏み込んでも止めなければいけない時がある。


ただ、相手の陣地に踏み込んで、それは間違ってる!!といったところで相手をコントロールできるわけではない。


ただ、罪にならないことなら何でもする。と同様に、法律に違反しないことに関しては皆が自由なのだ。


  • 肯定することは自分自身にも当てはまる。


自分を肯定すること。

これは自己肯定感をアップさせるためにとても大切だ。


自分を否定するほど

自己肯定感はさがる自信がなくなる人の方が優れて見える自分でなく人の意見の方を聞いてしまう。自分の軸がなくなる人の意見で落ち込んだり気が滅入る。。。。


どんどん負のスパイラルに落ち込んでいく。


この時、相手と自分を切り分けるのとは少し違う気がする。

自分の最大の友達、絶対に自分を否定しない応援者、仲間、絶対見捨てない家族のような存在であって欲しい。

自分に対してそのようであるとき、きっと人に対してもそうなることができる。


うまく働くことができない。セーブしてるけどみんなはもっと働けと言う。どうしよう。

君の状況を知ってるのは僕自信だ。君は間違っていない。ゆっくりやれば良いよ。


自分に優しくしてあげる。

甘やかしではないのか?ほっておいて食っていけなくなったら責任取れるのか?

責任を取るのは誰なのか、それは自分だ。自分で許して自分で責任を取るのなら何か間違ったことはあるだろうか?

じぶんをあまやかすことはわるいことか?

what

厳しくしたらどうなるのか。

たとえば

お前は怠け者だ。こんなこと他の人にもできるぞ、何でできないんだ。働かないと金もなくなるぞ、周りの目は気にならないのか?親に心配させて、悲しくないのか?生きてる価値あんのかー??


なんていったとする。

しかしおどろくことにこの言葉こそ普段自分にかけている言葉だったり、無意識に感じてしまうものだったりする。


その言葉はある意味では真実かもしれない。

でももうわかりきったその言葉は自分の助けになるのか?


人のために、世間一般のレベルに、人の目を気にして、人の名誉のために、、

そんなことのためにいじめてなんになるだろう。

たぶん気が滅入るのがオチだ。それは自己肯定感を下げているのも一つある。


猫をどんなけしかっても言うことなんて聞かない。猫をしつけるには、猫の望むことをさせながら、その習性を利用して望む方にコントロールしていくことだ。

猫だけでなく、警察権の訓練も犬にとっては遊びだと思っている。

遊び、褒められること、楽しいことが形を変えて人間の(世間の)望みに合うようにコントロールされることが一番自然で望ましい。誰も嫌な気持ちにならない。


悪い言い方をすると、

自分を肯定して、優しくして、そうしながら自然とみんなができるレベルへ誘導、導いている。

自分を肯定すること裏切らないことは、最終的に良い結果を生む。

他人の目や、人は何も知らないでこちらをひどくいったりそう感じさせたりすることがある。どうであれ自分だけは自分の行動に対していつも寄り添い、裏切らず、優しく、親切で否定せず、甘やかしてあげることは何より大切だ。

自分を責めてはいけない。

もう十分に責めた。その結果は何も生まない。ただ動けなくなるだけだ。

無意味なことはやめよう。悪く言うのは自分以外にまかせ、自分は自分を好きになろう。


  • 当たり前ができることは実はすごい。できるからすごいのでなく存在すること自体が奇跡だと思う。

この地球がどれほどの奇跡の上に存在しているか、私自身もその奇跡の上に親が生まれ、その奇跡の上に存在している。

人間は何を成し遂げなくても、どんな容姿でも、存在していること自体が奇跡なのであり、生きているだけで凄いのだ。

何かを成し遂げる必要はない、ただ当たり前のこと、誰でもできること、些細なことでさえ奇跡の上に成し遂げられたそれもまたすごいことなのだ。


人の価値は0地点にある。それを否定してはいけない。

凄いと言う価値のハードルを0にする。

働いていなくても、結婚してなくても、生きている、存在しているだけで凄い。よくできました💮なのである。

すでに良い

すでに良い


  • 変わる必要はない。そのままでいい。


自分を変えたり、変わる必要ってあるのだろうか。

HSPのあらゆる対策は、避けること。

ストレスに対して立ち向かったり、どうにか適応しようと自分を変えようと試みるのではなく、

光が眩しい時はサングラスをかけ、

他人に疲れたら一人になり、

うるさいなら耳栓して、


できるだけ避けて生きる。

これは自分を変えるのではなく環境を変えると言うことだ。


  • 環境を変える。

いじめを受けて無理にそこにいる必要はない、学校、職場を変えていい。

嫌なことを変えたり、他人に迷惑がかかるようならそこから違う場所に行けばいい。


  • 自分は自分のままでいい。
  • より自由なありのままの自分になる。

より自由なありのままの自分とは


つまり今の自分はすでに違う状態にあるかもしれないと言うことだ。


なれもしないのになりたい理想になるのではなく、じゃがいもがにんじんになるわけでもなく、マンチカンマンチカンらしくあるためのもの


why〉今の自分はなぜ変わったのか。


親の教育、学校教育、日本の常識、世間の目、道徳観、宗教観、あらゆる人間関係による影響、憧れや理想、失敗の経験、プライドなどさまざまな理由がある。


まるで埃が溜まっていくように、元ある姿にこべりついている。


それを見直していく時、それら一つ一つを剥がしていき自分の姿はどんなものであったのかを再確認する。それがなるべくある形で、個性である。


つまり付け足す必要がない。


  • 人は影響し合うから良いのでは?影響力をどう考えるのか。

影響とは?

影響とは他者から加わる力で引力があって、そうなりたいと思わせたり、考え方を変えたりする。

何が問題か?

それはこべりつきとは何が違うのか。

外部の影響により自分にない形に自分を変えようとする力にならないか?


それは悪いことなのだろうか。






問題点は、捉え方ではないか?

影響を受けた時、それをいかに自分のものとして扱うのかが問題なのではないか。


たとえば

狩りのうまいアメショーがいて、狩りの下手なマンチカンが憧れたとしよう。

マンチカンは狩りが下手でもよくないか?そのままで良いのでは?

確かにそれも個性だが、それは変えることのできること。足をアメショーのように伸ばすことはコントロール不可のこと。


コントロールの可否の問題か?


影響を噛み砕いて、自分のものにする。自分の養分にする。

その人のやったままではなく、噛み砕く。


絵画だとしてもあらゆるテーマがある。テーマは作品に影響を与える。

しかし求められるのは各々がどのような回答をだすのか。そこに個性がある。


  • あなたがどうとらえ、どう回答するのか。そこに個性、独創性がある。


  • 影響とは価値観を広げるためのもので有益なものだ。

イタリアに行ったからこそその影響があるからこそ、働き方、日本の常識というものに目が開かれた。

影響はある意味、別の角度から自分に何がこびりついているのかを見るためにある。




  • どうやって剥がしていくのか

見直していく。間違いはなかったか。不可抗力はなかったか。

好きなことか嫌いなことか。


  • ようはあなたはあなたのままで素晴らしい。何かを達成するからではないと言うこと。だから変わらなければいけないと思わなくていい。ただもっと自由になっていくほど輝くものだ。


厳しくして伸びる人の終焉

厳しくして伸びる人の終焉


  • 褒めて伸びる教育以外おかしくない?


厳しくして伸びるとは

スパルタ的で何でこれができないんだ!と厳しくしてこんちくしょう根性や負けん気で立ち上がらせる教育方針だ。

でもこれは今通用するのだろうか。


軍隊のような個を殺して集団として命をかける場合や、ヤンキーのように負けん気やプライド、舐められるのが嫌な他人に対しては有効だったかもしれない。

いやたぶん軍隊から来ているんじゃないだろうか。


現代ではどうなのか?

暴力や力、上下関係で相手を子分や軍隊のようにしつけような教育は現代では忌み嫌われる。パワハラの一言で片付けられる。


why

・自己肯定感を下げる教育

・上に依存する教育。上がいなくなると自発的に行動できない。

・恐怖心を軸にしている。負けん気がない場合。


  • 褒めて伸ばす教育はどうなのか

・自己肯定感をたかめる。

・自発性をうむ

・自信や自分の可能性に期待できる存在になる。


how

  • 友達のようになる。上下関係の崩壊
  • 相手の悪いところに目をつむり、良いところを伸ばす。

これはある意味でただしい。

厳しい教育は、無理矢理でも均一化しなければいけない。できないものもできるものも適材適所も関係なく皆に基礎を叩き込む。

褒める教育はそれと逆で、良いところを伸ばしていくその子の個性を伸ばし、あらゆる得意分野を持ったたくさんの別々の人材を育成する。

苦手があって当然。

文系理系がいるようにオールマイティはいない。あらゆるもののベースとなる知識は必要だが無理矢理詰め込むものでない。

褒めながら得意を伸ばす時

勉強は楽しいものと認識される。

知識は全てにつながっている。あらゆることを学ぶうちに別の分野に興味が湧いたり、繋がったりもする。楽しい勉強に嫌いな勉強は追いつけない。


  • 肯定する教育
  • 動物の教育はどうか

犬の訓練でも、今は叩いたり怒鳴ったり昔のサーカスのようなしつけはしない。

友達のようになってどんな真面目な訓練も少しずつその子の習性を利用しながらコントロールしていく。

犬は遊んでいるとしか思っていない。むしろできればできるようになる程楽しい遊びになる。人探しをしている犬は尻尾を振っている。

猫にだってしつけるときは怒ってもその瞬間だけ、しかし褒めること、最初から問題を起こす要素を無くしておくことが大切で、怒ることや叩くことは、問題でなくその人間に対する恐怖にしか認識されない。

猫にとっては褒めることあそぶこと。遊びの中で相手が望むものを得られるという喜びを使ってコントロールしてこちらの望む芸を身につけさせる。猫は遊んでいるとしか思っていない。


叩くことは恐怖を植え付け、その人がいる限り言うことを聞かないと怖い目に遭うと言う恐怖によるコントロール

それはその人がいなくなった途端解放されるか、監禁された洗脳状態やDV被害者のような理解できない依存関係になる。


褒めることは、相手に遊んでいる、楽しい、と感じさせながら少しずつ望む形へと導いていく手段だ。

自分の言葉が自分に影響を与える 謙遜する必要ってあるのか

自分の言葉が自分に影響を与える。


  • 下手な謙遜は自分を傷つける


思ってもないのに謙遜すると後でその言葉が自分を責める。


明らかに相手が悪いのに、思わず、すみません汗💦と言った時、あとで何で俺が謝ってるんだ!と思う。


お前はパラサイトだな!

寄生してなんぼじゃい!

その時は笑い話のように強がっていても、結局相手の言葉に加えて自分で自分を下げたことや認めたことが自分を責める。


  • 他人を傷つけることもある。

思わぬことを言う時、

夫が妻を褒められて

綺麗な奥さんですね!

いやいや気が利かないやつなんですよ!

それはその場凌ぎの謙遜だと誰もがわかるが、それは妻を実は傷つけている。


  • 謙遜に意味はあるのか?

why〉なぜそもそも謙遜するのか

相手を立てるため?

角が立たないため?

結局は相手の噂話や嫉妬や妬みが怖いからだ。


しかし

最後には羨ましがられる人間性は謙遜しない人だったりする。


どんな時も妻を愛する人、仲睦まじい夫婦。

どんな時もポジティブな人、弱音を吐かない人、自信のある人


こう言う存在を最終的には人間どこか憧れているものだ。


・謙遜する必要はない。

・ただ無意味に自慢する必要もない。


謙遜しないことと自慢することは異なる。


自慢することは愚かさを孕んでいる。


他人に問われて、思ってもいない、謙遜の言葉を使う必要はない。

たとえば

お美しいですね!

いやいやそんなことはありません。わたしは、、、、

と言うのではなく、

ありがとうございます。褒められて嬉しいです。


確かに角は立つが何が悪い。


しかし

問われてもないのに

私は美しい!!

と言うものはナルシストであり他人にあなたは美しいといって欲しくてたまらない人でしかない。

ナルシストは自己愛なのでなくやはり承認欲求の追求、欠乏を満たそうとしている行為かもしれない。


  • 自分、他人を正当に評価する。肯定すること。しかしそれは自分のうちで完結する。

下げる必要はない。しかしそれを発信する必要はない。


そうすれば心は守られる。

幸せ 灯台下暗し

幸せ 灯台下暗し


幸せを知るには外から足元を見る必要がある。

日本にいる幸せは外国に行くとわかったりする。

家族がいる幸せは家族がいなくなった時わかったりする。

だからといっていなくなるまで、外に出るまで知ることができないかと言ったらまた別。

昔の写真をみてあの時は若くて幸せだった。と思っている現在の写真を10年後に見て多分同じようにおもうのだろう。


自分をまるで外から見るように見れば良い。

そして今にフォーカスする。


過去は今より良いとしても、未来からしたら今がベストなのかもしれない。

今の幸せを感じておかなければ損だ。


幸せは外に探してもない。今その足元にあるもの。与えられている状況や環境や内的なものにある。


幸せはすでに得ているものでいずれてにいれるものではない。


一億ためても、結婚しても、就職しても、子供ができても、家を持っても、理想の車に乗っても幸せになれるわけではない。

その時その足元に幸せがあるだけでその持ち物によるものではない。


  • 今不幸な時どうする

今不幸でも、10年後からしたらあのとき幸せだったと思うかもしれない。

いじめを受けていても10年後の自分からしたらあの状況でも生き抜いた俺は強いと思うかもしれない。今なら死んでるだろうと思うかもしれない。


それってもっと将来が不幸ということなのか。

幸せは気づかないかぎり不幸ではある。

どんなに満たされた環境でも人は死んだりする。戦地でも強く生きたりもする。

戦時中にも幸せを感じていたりする。幸せは環境に左右されずいつでもどこでも何時でも感じることができる。


  • 比較しない幸せはあるのか

いつもあの人よりは収入がいいからわたしは幸せとか。

あの人は独身だけどわたしは結婚しているから幸せとか。


比較があるから幸せならば比較で上位にならなければ永遠に不幸ということになる。


しかしその基準は曖昧だ。

日本的、一般的、基準において豊かとされることから比較して幸せとしている。

でもその基準はここだけのものかもしれない。

結婚しないことが幸せな価値観もあるし、収入のためにあくせく働かない自由が幸せかもしれない。

これも一般的幸せに比較していないか?


比較しない幸せはあるのだろうか。

もしこの世の中自分一人だったらどうか。

だれも比較対象がいない。

だとしたら働かなくてもいいけど生きてはいかなきゃいけない。

そんな時何が一体幸せか。

大きな魚がとれた🐟?美味しく料理できた?

ベッドが心地いい?天気がいい?風が気持ちいい?

猫じゃん🐈

猫が感じている幸せって本当は純粋な幸せなんだろう。


・純粋な原始的な幸せだれも不幸にしない今あるものを感じ取る幸せ。

・比較した幸せ比較に外れたものは自分であっても不幸になる。外的なものを獲得する幸せ優越感と劣等感の別意で幸せと不幸


  • 猫は比較しないのか。

猫は比較しないんじゃなかろうか

あの猫より飯がある。あの猫より広いテリトリーがある。メスにモテる。だからといって優越感に浸りはしない。

ただ感じているのはその状況において嬉しいだけでその状況を獲得していない奴らをみて悦になったりはしていないのではないか。


やはり原始的幸せを感じている。

猫にとって不幸な時は、、嫌な気分になる時くらいで不幸だとは思っていないのでは?

幸せということが人間の概念で、猫にとっては嬉しいか嫌かというくらいなのだろう。


そう考えると人間だけが過去や未来、他人との比較をすることによって感じる独特な価値観が幸せなのではないだろうか。

それはある意味で動物より無意味で愚かさも含む価値観なのかもしれない。

幸せは感じたっていいがなくても生きることはできる。

正しさを捨てて

正しさを捨てて


正しさを信じていると、

争いが起きる。


正しさ

普通

一般常識

〜すべき


(普通、一般常識、正しさ、すべき、をFITSと呼ぶことにする。相手をはめ込ませると言う意味では良い。)


これらは信頼に値しない。


正しさがぶつかり合って戦争は起きる

正しいと思い込んだ悪がネットで集団で叩く

悪いことをしていても本人は正しいと思っていたりする。その人にとってその行為は正しいのだ。

普通。それは今ここのコミュニティでだけかもしれない。家族、町内、日本、アジア、世界。宇宙ではまた違う普通がある。


〜すべきというのもこの狭い普通や一般常識をあたかも当たり前のように刷り込むための言葉だ。


あなたは正しい。わたしも正しい。あなたも間違ってる。わたしも間違っている。


わたしはイタリアでは🇮🇹自由だったが日本🇯🇵では不自由だ。(少しだけイタリアにいたことがある。)

それはそれぞれの国のFITSに従おうとするからだ。

イタリアでは考えなかったこと。

仕事は一生懸命すべき。とか

休んではいけない。とか

働かない奴は残念。とか

結婚しない人は可哀想。とか

30も過ぎて実家暮らしは可哀想。とか


イタリア🇮🇹ではどうか

そんなに働かなくても幸せはある。

休んでなんぼだし、休まないと仕事にならないし、休むために仕事している。

仕事なんか人生のめんどい部分なんだからさっさと終わらせて切り替えて飲みたい。

働かない大学卒業生がどんなけいるかわからないが楽しそうだ。

結婚なんてほとんどの人はしないが一緒に住んだり恋愛したりする。

30過ぎたってマンマが好きでマンマが養ってたりもする。


いかにFITSが間違いか。その常識、普通は場所が変われば変わるのだ。


あなたのアイデンティティが自分を作る。その自分でどんな場所でも自信を持って生きたら良い。


せっかくイタリアに行っても🇮🇹失敗としてしまいなかったことにして日本で日本人らしく生きる必要はない。


郷には言って郷に従う必要ある?


学んできたこと、体験したこと、その常識は今でもイタリアでは変わるかもしれない。

でもその時感じたこと、体験したことが自分を作る。それを捨てる必要なんてない。

あなたはそれを体に蓄えて生きたら良い。

日本にいたって日本のように生きる必要はない。いろんなもののハイブリッドとして生きたら良い。


あなたはハイブリッドだ。


もうイタリアに行く前の日本人の自分とは違う。どう頑張っても染み付いてしまった価値観がある。それは井の中の蛙では知ることのできないあたらしいFITSだ。


  • ここで現れてくるのが、正しさだ。


いつも相手の方が正しいと思っていると自分はどこにいるか


自分は相手より劣っている。知識や経験がない。と低くしている。


この日本人の愚かな謙虚さは不要なものだ。


how どうかんがえるのか


自分も自分の今のアイデンティティ(今までの知識や価値観経験全てで構成されている最高の自分)でアイデンティティと向かい合う。


どちらが上かを問うものではない。


言うなれば情報交換、共有に近い。


相手の意見によって、自分が無価値になることもない。その人のFITSが自分を拘束するのものではない。自分の意見も同じだ。

ヘェ〜と聞いてヘェ〜と流しても良い。

また新しいFITSを自分の体験として感じて、自分の世界を広げるために会話はある。


会話とは、新しい相手のFITSを取り入れる機会であり、それに拘束されることも、自分を失う危険もないモノである。自分を拘束されそうになったらその話は無視しても何も悪くはない。


人は年齢や性別に関わらず平等で、だれも人のことを上にしたり下にしたりはできない。おのおのの正しさを知りながら強制せず、自分も自由をもっている。



普遍的な正しさは存在しない。その幻想を捨てないと上か下の話になってしまう。


普遍的正しさを信じる

=誰かが正しく、自分は間違っている可能性がある。拘束される。不自由


各々の正しさがある

=各々が正しい、各々が間違えている可能性がある。各々は自由。他人に左右されない。


変わらない真実、変わらない正しさ、普通、常識、それは存在しない。それをあきらめろ。それを追っても見つけられない。あるとしたら神かどうかくらい。人には作り出せない。それを知ることによって、自由になり、自分を大切にできる。


憧れは愚かにもなる

憧れは愚かにもなる


モノマネの人は本物になれない。

外国に憧れても外国人にはなれない。


日本は日本なのに外国の雰囲気やインテリアに憧れる。

外国人にとってはその人のアイデンティティがその人にとって大切だからアフリカ系の人はもしかしたらアフリカンなインテリアをしていて、アジアの人はアジアな雰囲気の部屋に住むのかもしれない。

皆が違うのだから自分というものを他より秀でたように見せる必要もないとも言える。


(why)なぜだろうか


日本は日本人ばかりの中にいる。見た目もアイデンティティもほぼ同じな中で違いや個性を出すため、日々流行や外国や違ったものや新しいものを追いかける。

それが一概に悪いと言うのも海外に被れてるのかもしれない。でも日本の常識が正しいとも言えない。



(What )なにができる?


憧れでなくその人らしさへ、外でなく内への探求


外への探求


競争、

ないものねだり、 

自分ではないものを作る、自分嫌い?

塑像的

上には上がある世界

終わりがない


内への探求


真の自分探し

自分のことを愛する手段

他人は無視して自分の好き嫌いを見つける

本当の意味での個性

彫刻的

競争ではなく、個々の世界

終わりがないが追いかけても手の届かない感じじゃない


(HOW )どうするのか


内への探求をめざすこと、この地球の住人


たとえばインテリアなら

世界の中で、日本に生まれ育ってこう言うバックボーンがある自分の好き嫌いをよーく聞きながら求めるスタイルとは?


その部屋はどうあって欲しいのか?

どの行動が自分にとって大切なのか?

眠ること?

光の美しさ?

落ち着き感?

さわやかさ?


人からどう見られたいからではなく、(全く必要なくはないが)

自分がどう真に思って求めているのか。

その思想なのだ。

結局それを突き詰めていくところに人からの見える良さが現れる。


その絵は部屋に飾るにあたってどう言う意味をもたらすのか?絵はどう飾るのか、どの高さなのか?

ソファーはどの角度がいいのか?

自分にとっての美しさ、心地よさ、しっくり。


この調べたら全ての答えらしき、一般常識が見つかる世の中で実は大切なのは、

それら全てに従うことでなく、自分の視点に立って自分の感性を突き詰めること。

普遍的な真実、ただしさ、どうあるべきかは存在しない。

だとしたら自分にとっての真実を見つけることができることではないか?


自分にとっての正しさ、真実、心地よさを探すこと。それは普遍的なものでなく個人のもので、それが個性であり、追いかけるものではない見つけることのできるかっこよさや美しさである。